朝の静けさの中、コーヒーの香りに包まれながら新聞を広げた時、ひとつの記事が目にとまりました。
「5類移行後1年間の新型コロナウイルスによる死者数が3万2576人、インフルエンザの約15倍」
思わず、私はカップを置き、じっと記事を見つめました。
数字や事実の正確さ以上に、私の心を捉えたのは、この記事に滲み出る「語り方」でした。同じ数字でも、伝え方によって私たちの受け取り方は大きく変わるものですね。そう気づいた瞬間、父が言っていた言葉を思い出しました。
「新聞も人が書くものだ。だから、その人の見方が必ず映る」
記事の奥に潜む「色眼鏡」
先日、古い友人と喫茶店で待ち合わせた時のこと。彼女が見せてくれた同じニュースの別の記事では、まったく異なる印象を受けました。同じ事実でも、どの部分を強調し、どの言葉を選び、どの比較対象を用いるかで、まるで別の物語になるのです。
コロナとインフルエンザの比較。この選択自体に、記事を書いた人の「見方」が表れていると思いませんか?
「インフルエンザの15倍」と表現するか、「肺炎全体の半分以下」と表現するかで、読者の受け止め方は大きく変わります。
私が学生時代に尊敬していた教授は、「メディアは鏡ではなく、レンズである」とよく言っていました。
レンズは対象を拡大も縮小もでき、時に歪めることもある。事実を映し出しながらも、必ず「見方」が混じるのです。
バイアスの種類を知る
古い本棚を整理していた時、大学時代のメディア論のノートを見つけました。そこには様々なバイアスの種類が記されていました。今読み返すと、日々の報道を見る目が変わってくるから不思議です。
例えば「確証バイアス」。これは自分の既存の信念や価値観に合う情報を無意識に重視してしまう傾向です。コロナ報道でも、「危機を強調したい」記者と「冷静さを保ちたい」記者では、同じデータからまったく異なる記事が生まれることがあります。
また「フレーミング効果」も見逃せません。先ほどの「15倍」という表現は、典型的なフレーミングです。同じ数字でも、どの枠組み(フレーム)で提示するかによって、受け手の印象が大きく変わるのです。
雨の日の縁側で、これらのノートを読み返していると、ニュースを読む私自身の姿勢も変わってきました。「この記者はどんな視点から書いているのだろう」「なぜこの比較を選んだのだろう」と考えるようになったのです。
メディアリテラシーの実践
先日、小学生の甥が宿題で「新聞の見出しを集める」という課題を持ってきました。一緒に作業しながら、同じ出来事でも新聞によって見出しがまったく違うことに気づいた時の彼の驚いた顔が忘れられません。
「なんで同じニュースなのに、こんなに違うの?」
この素朴な疑問に、私は「新聞を書く人によって、大切だと思うことが違うからだよ」と答えました。そして、彼と一緒に見出しの裏にある「視点」を探す小さなゲームをしました。まさに、メディアリテラシーの第一歩だったと思います。
メディアリテラシーとは、単に「嘘を見抜く力」ではありません。むしろ、どんな報道にも必ず「視点」が含まれていることを理解し、その視点を認識した上で情報を受け取る姿勢のことだと思います。
完全に中立な報道など存在しないからこそ、私たち読者の側に「読み解く力」が求められるのです。
バイアスと感情の関係
昨夜、ひとりの時間に好きな音楽をかけながら考えていました。なぜ、あの記事を読んだ時、私は思わず立ち止まったのだろう?それは「15倍」という言葉が、私の中に不安や恐れといった感情を呼び起こしたからではないでしょうか。
報道とは、ただ事実を伝えるだけのものではありません。言葉の選び方や数字の見せ方によって、読者の感情に強く訴えかけます。「危機感」「安心感」「怒り」「同情」…。どの感情に訴えかけるかという選択にも、記者の視点が現れるのです。
インターネットで検索すると、10年前のインフルエンザ流行時の記事を見つけました。当時も多くの方が亡くなっていましたが、メディアの伝え方は今とは随分違います。なぜでしょうか?時代背景や社会の雰囲気、そして記者個人の視点が影響しているのでしょう。
言葉の持つ力と責任
先週、地元の文芸サークルで「言葉の力」について話し合う機会がありました。高校の国語教師をしている友人が言った言葉が心に残っています。
「言葉は現実を映し出すだけでなく、現実を作り出す」
この言葉の意味を深く考えると、メディアの持つ責任の大きさに気づかされます。例えば「コロナによる死者数」という表現と「コロナ陽性者の死者数」という表現では、同じ数字でも読者の受け止め方は大きく変わるでしょう。どちらを選ぶかという小さな決断の積み重ねが、社会の認識を形作っていくのです。
以前、祖母が入院している病院を訪ねた時、担当医師との会話が印象的でした。「医療現場では、言葉の選び方に細心の注意を払います。同じ診断結果でも、伝え方によって患者さんの回復への意欲が大きく変わることがあるからです」と。
メディアも同じではないでしょうか。社会に情報を伝える立場として、言葉の選び方がもたらす影響を常に意識する必要があるのだと思います。
複数の視点を持つことの豊かさ
海外で暮らしていて、日本の報道を外から見る機会が多い知人は、「同じニュースでも、国によって伝え方がまったく違うことに驚くよ」と言いました。
この会話をきっかけに、私はいくつかの海外メディアを定期的にチェックするようになりました。同じ出来事でも、視点が変われば見える景色が変わる。そんな当たり前のことに、改めて気づかされたのです。
最近は朝の習慣として、同じニュースを複数の媒体で読み比べるようにしています。時間はかかりますが、ひとつの視点だけでなく複数の視点から物事を見ることで、より立体的な理解ができるようになった気がします。
昔、写真を趣味にしていた頃、同じ花を様々な角度から撮影することで、その花の美しさをより深く理解できることを学びました。ニュースを読む時も同じではないでしょうか。一つの視点だけでなく、様々な角度から眺めることで、出来事の本質により近づけるのだと思います。
私たちの読み方が世界を変える
メディアリテラシーの本を手に取りました。そこには「情報の受け手こそが最後のフィルターである」と書かれていました。
日々、膨大な情報が私たちに押し寄せる現代。すべての事実を自分で確かめることはできません。でも、記事を読む時に「この表現は中立的かな?」「別の見方はないかな?」と少し意識するだけで、見える世界が変わってくるように思います。
先日、TVで「メディアと社会」をテーマにした番組を見ました。先生が生徒たちに問いかけていた言葉が印象的でした。「ニュースを読む時、『何が書かれているか』だけでなく『何が書かれていないか』にも注目してみよう」と。
確かに、情報の取捨選択も大きなバイアスの一つです。コロナの記事でも、死者数を強調する報道がある一方で、回復者数や軽症者の割合についてはあまり触れられていないことがあります。何を報じ、何を報じないかという選択にも、記者の視点が表れているのではないでしょうか。
批判的思考と共感の両立
「批判的に読むことと、共感することは矛盾しない」
ある本で語られていたこの言葉に、私はハッとしました。確かに「批判的思考」というと、否定的なニュアンスで捉えられがちです。しかし本来の意味は、物事を多角的に検討し、深く理解しようとする姿勢のことです。
バイアスを見つけることは、記事を書いた人を否定することではありません。むしろ、その人の視点や価値観を理解した上で、自分なりの考えを深める過程なのだと思います。
先日、近所の喫茶店で読書会があり、参加してみました。そこでは「同じ本を読んでも、人によって全く違う感想を持つことがある」という話題で盛り上がりました。ある参加者が言った「それぞれの読み方には、その人の人生が映し出される」という言葉が心に残っています。
ニュースを読む時も同じかもしれません。記事には記者の視点が映り、その読み方には読者の視点が映る。そして、それぞれの視点を尊重し合いながら対話することで、より豊かな理解が生まれるのではないでしょうか。
心に留めておきたいこと
「事実は一つでも、物語は無数にある」
コロナの数字論争に決着をつけることが目的ではなく、その議論の背後にある様々な見方や価値観に気づくことが、私たちの視野を広げてくれるのだと思います。
朝の光が差し込む縁側で新聞を読む時、ぜひ記事の「語り方」にも目を向けてみませんか?そこには書き手の思いが濃く映し出されているはずです。そして、その「思い」に気づくことが、より豊かな理解への第一歩なのかもしれません。
新聞やニュースを読む時、少し立ち止まって「この記事はどんな視点から書かれているのだろう?」と考えてみてください。そうすることで、メディアとの新しい関係が生まれるかもしれません。そして、ぜひご家族や友人と、この「見方」について語り合ってみてください。きっと新しい発見があるはずです。
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