はじめに :法律は変わった。しかし何かが足りない。
令和8年(2026年)10月1日、「改正労働施策総合推進法」が施行され、カスタマーハラスメント(カスハラ)対策がすべての企業に義務付けられた。従業員を1人でも雇用するすべての事業者が対象となり、相談窓口の設置、対応マニュアルの整備、従業員への研修実施などが法的に求められるようになった。
この法改正を報じるニュースは「画期的」「待望の義務化」と歓迎する声であふれた。確かに、義務化には意義がある。しかし、歓迎の声の陰に、見過ごしてはならない構造的な問題が残っている。
この法律は、ハラスメントを行った顧客・利用者に対して、何ひとつ直接的な制裁を与えない。
加害者は、よほど刑法上の犯罪(暴行・脅迫・業務妨害等)に抵触しない限り、何も失わない。それでもなお「義務化で従業員が守られる」と言えるだろうか。
今回の改正は、日本社会がカスハラという問題に正面から向き合い始めた「最初の一歩」だ。しかし、その一歩が持つ意義と限界を、冷静に見極めておく必要がある。
第1章 深刻化する被害の実態
まず、制度論に入る前に、カスハラが日本社会においてどれほど広く、深く浸透しているかを確認しておきたい。
カスハラ(カスタマーハラスメント)とは、『顧客や取引先からの理不尽なクレームや過剰な要求を通じて、従業員に精神的・身体的な負担を強いる悪質な迷惑行為』を意味します。
厚生労働省の「令和5年度 職場のハラスメントに関する実態調査」によれば、過去3年間にカスハラの相談があったと回答した企業の割合は 27.9% に達し、前回(令和2年度)調査より 8.4ポイント増加 している。相談件数の増減傾向においても、カスハラのみ「件数が増加している」と答える企業が「件数は減少している」を上回っており、他のハラスメント類型が減少方向に転じている中で、カスハラだけが逆行している点は見過ごせない。
被害の内容も深刻だ。パーソル総合研究所が2024年に実施した調査(顧客対応職種に特化)では、被害内容として「暴言や脅迫的な発言(60.5%)」が最も多く、「威嚇的・乱暴な態度(57.7%)」が続く。公務公共職場を対象とした自治労連のアンケート(2024〜2025年)でも、職員の 47.6% が何らかのカスハラを経験したと回答している。
第2章 「報告しても、加害者には何も起きない」という構造
相談は起きている。しかしその先が問題だ。
ここで注目すべきデータがある。厚生労働省の同調査(労働者調査)によると、カスハラ被害後の行動として最も多かったのは 「社内の上司に相談した(38.2%)」 だった。「何もしなかった」は35.2%でこれに次ぐ。
この数字は、一見、カスハラ対策がある程度機能していることを示しているようにも見える。しかし実態を深く見ると、別の問題が浮かび上がる。
パワハラやセクハラでは、「何もしなかった」がそれぞれ36.9%・51.7%で最多回答だ。つまり、カスハラは他のハラスメントと比較すると相談行動が取られやすい、と言える。上司への報告がルートとして機能しており、被害は組織に届いている。
サービスセンターなどに電話すると「サービス品質の向上のため」と銘打って、やり取りが録音されることも多い。これらがカスハラ対応時の証拠としても機能し得る。
それでも、加害者には何も起きない。
上司に相談した38%の従業員も、何もしなかった35%の従業員も、その先に待っている現実は同じだ。加害者である顧客・利用者は、刑法上の犯罪に該当しない限り、法的な意味で何も失わない。相談というアクションが機能していながら、その先の帰結が空洞になっている——これが今回の法改正が手をつけていない核心的な問題だ。
第3章 法改正が「義務化」したもの
事業主への措置義務
今回の義務化は、改正労働施策総合推進法の枠内で、企業側に以下を義務付けるものだ。
- カスハラを許容しないという基本方針の策定と周知
- 従業員が相談できる窓口の設置と周知
- 発生後の迅速な事実確認と被害者へのケア
- 悪質事案への対処方針(警察通報の基準等)を含む従業員への研修と周知
対策を怠った企業には、都道府県労働局からの指導・勧告が行われ、是正に従わない場合は企業名の公表という制裁も規定されている。
義務化の意義
この枠組みが整備されたことには、確かな意味がある。上司への相談がすでに多く行われているカスハラにおいて、企業として「組織的に対応する」姿勢が制度的に担保されることは重要だ。対応マニュアル・相談窓口・研修の整備が義務化されることで、相談を受けた上司が「どう動けばよいか」という指針が明確になる。「個人の判断」から「組織の手順」へ移行する土台ができる。
それは確かに、被害を受けた従業員に対する支援の質を引き上げる効果を持つ。
第4章 しかし、加害者は何も失わない
セクハラ・パワハラとの「非対称性」
ここで、セクハラやパワハラとカスハラの構造的な違いを整理したい。
セクハラもパワハラも、加害者は企業から懲戒処分という実害を受けるリスクがある。企業には行為者への措置義務が課されており、「加害者に代償が生じる」という構造が一応成立している。勤務先での立場を失う、降格される、周囲からの評価が変わる――加害者には何らかのコストが発生し得る。
一方、カスハラはどうか。今回の法改正が義務を課した対象は、すべて「事業主(企業)側」だ。ハラスメントを行った顧客・利用者に向けられた直接的な法的帰結は何もない。よほど刑法上の犯罪(暴行・脅迫・業務妨害・不退去等)に抵触しない限り、その人は法的な意味で「何も失わない」。
これは構造的に言えば、「砲弾を受ける側に盾を持たせる義務を課したが、砲弾を撃つことへの制裁は設けなかった」状態だ。被害を軽減する仕組みは整えられたが、被害の発生源には何も触れていない。
東京都条例も同じ限界を持つ
国の法改正に先行して、2025年4月に全国初のカスハラ防止条例(東京都)が施行された。しかし、これもまた顧客側に対しては「努力義務」にとどまり、罰則は設けられていない。
「努力しましょう」という規範に、行動変容を促す強制力はない。
なぜ加害者規制が難しいのか
もちろん、加害者側を直接規制しなかったのには、それなりの事情がある。
まず、「正当なクレーム」との境界の難しさだ。消費者には不満や苦情を表明する権利がある。「怒った顧客を罰する法律」は、正当な消費者の権利行使まで萎縮させかねず、消費者保護の観点と衝突する。また、「暴言を吐く」という行為を個別に刑事罰の対象とすることは、言論・表現への国家介入として非常に高いハードルを要する。深刻な被害に対しては不法行為(民法709条)による民事的救済が既にある、という整理もある。
要するに、本丸である「カスタマーハラスメント行為」については、「既存の法律で対処するしかない」という状況から何も変わっていない。
第5章 「加害者が何も失わない」構造が続く限り
行動変容は起きにくい
カスハラを行う顧客の側に立って考えてみる。企業側が「対応方針」を整備し、「カスハラには毅然と対応します」というポスターを店頭に貼るようになる。それが加害者の行動をどこまで変えるだろうか。
「対応が変わる」ことへの驚きや戸惑いは生まれるかもしれない。しかしその人自身が被る不利益は何もない。取引を断られること、警察を呼ばれること、それらは既存の法的枠組みでも可能だった対応だ。新たに「カスハラをすると自分が損をする」という構造は、今回の改正では生まれていない。
相談しても報われないという無力感
第2章で見たように、カスハラ被害者は他のハラスメントに比べて相談行動を取りやすい。上司に伝える、組織に届ける——そのチャンネルはすでに機能している。にもかかわらず被害が繰り返されるとき、従業員の中に積み重なるのは「訴えても、相手は何も変わらない」という無力感だ。
企業の相談窓口が整備され、対応マニュアルが充実しても、その先に「加害者への何らかの帰結」が見えなければ、被害者の消耗は止まらない。「救われた」と感じるには、組織に守られているという実感だけでなく、「理不尽な行為には結果が伴う」という公正感が必要ではないか。
第6章 「最初の一歩」の先に必要なもの
繰り返すが、今回の義務化は無意味ではない。「従業員を守る組織の枠組みを整える」という点において、確実な前進だ。しかし、それは制度の外枠を作ったに過ぎない。実効力を持たせていくためには、次の段階へ進む必要がある。
① 悪質な加害者への民事的対抗手段の整備
企業が悪質な顧客に対して損害賠償請求や入店禁止措置を取りやすくするための法的明確化が求められる。「お断りする権利」を企業が行使しやすい環境を作ることが、加害者にとっての「コスト」になる。
② 加害者個人への社会的帰結の設計
民事的制裁を含め、カスハラ加害者が特定・公表されるような仕組みの議論が必要になってくる。難しい問題ではあるが、「何も失わない」構造のままでは根本的な解決にはならない。
③ 消費者教育・社会規範の形成
法律は社会規範の変化を先取りすることで、意識を引っ張る効果を持つ。「カスハラは許されない」という規範を、学校教育や消費者教育の中で育てていくことが、長期的に最も重要な変化を生む。
おわりに ―「第一歩」という評価は、次の一歩を踏むことを前提とする
令和8年10月の施行は、日本社会がカスハラを「個人の問題」から「社会が対処すべき問題」として認識し始めた証左だ。その意味で、今回の義務化は評価に値する。
しかし、加害者が何も失わない構造を変えずに「義務化したから解決に向かう」と楽観してはいけない。カスハラでは被害者の相談行動はすでに起きている。問題はその先——カスハラ行為が明らかになったとしても、加害者には何も起きないことだ。企業の取り組みは従業員の傷を和らげることはできるかもしれない。しかし、それが加害者の抑止につながらなければ、被害の根は枯れない。安心して働ける状況にはならない。
ただ問いたいのは、「この一歩の先に、次の一歩を踏む意志があるか」ということだ。
制度の外枠が整ったいま、次に問われるのは「加害者側の構造をどう変えるか」という、より根本的な問いだ。それに答えを出すことなしに、カスハラという問題は「軽減」されても「解決」には至らない。
今回の義務化は、ゴールではなく出発点だ。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
本記事は、厚生労働省・政府広報オンライン・各種調査データをもとに作成しました(2026年6月現在)。
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